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心のページ
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このページは市民から人格者と認められ、思想的に偏らない方に事務局からボランティアをお願いし、悩みの多い青少年や市民にメッセージを送っていただくコーナーです。
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松田 保さん 1948年滋賀県生まれ。 |
今週(9月30日号)、毎日新聞の情報紙
「Oh!Me」に掲載された心のページ
| 選手に惚れる |
「指導論は恋愛論や人生論に通じる」「人間が人間を好きになることからすべてが始まる」これが私の持論。監督は選手に惚れなければならないし、選手から惚れられなくてはならない。だから監督は常に魅力的であるための努力をしなければならない。「惚れる」という言葉を辞書で引くと「心を奪われる」「うっとりする」「ふつうの判断ができなくなる」とある。その通りで、損得を抜きにして「こいつのためなら、ちょっと無理してやってやろう」と思わせることだ。教師になって、最も私を魅了したのはサッカー日本代表の主将だった井原正巳。1970年、私は金沢大を卒業し、体育教師として甲南高校に赴任した。そこで教えたサッカー部の主将に奥村弘という男がいた。彼は卒業して地元貴生川で少年サッカーチームを教えた。そこに井原が来たのだ。 井原が最初に出会ったスポーツは柔道だったが、カッコよさにあこがれてサッカーを始め、「サッカーの天才」は少しずつ頭角を現わしていった。高校進学のとき奥村は、井原に私が転勤していた守山高校を勧めた。井原の目標は、守山高校から大商大に進み、大学六冠を達成し、のちにJリーグ浦和レッズから、日本代表になった望月聡だった。井原のサッカー人生は1983年から守山高校を舞台に始まり、そして、私も「井原との出会い」「彼の卒業後のなみなみならぬ努力と前進」がサッカー指導者としてのターニングポイントとなった。 井原の入部する前の年、守山高校のサッカー部は「打倒帝京・清水東」で、全国制覇を果たすことが目標だった。選手の能力は高く、のちにこの年のレギュラー11人中の大半が日本リーグに在籍したほどだ。そんな高いレベルの厳しい環境にもかかわらず井原は1年生のときからレギュラーを奪い、当時のエースナンバーだった「14番」を望月聡から譲り受けた。井原はプロ時代、冷静なプレーが売り物だったが、高校時代は気性の激しい選手だった。友達と喧嘩をするという意味ではなく、サッカーのこと、勉強のこと、生活態度、いろいろなことで自分のポリシー、生き方をしっかり持っていた。ふだんは温厚な優等生だったが、ひとたびサッカーとなると自己主張の強い「向かってくる男」だった。 入学してくる直前の春休みの練習で、わたしは井原を大変厳しく叱ったことがある。 あるゲームで、井原が相手を抜いてゴールに突き進んでいった、そのとき、3年生が横から追いつき、井原にファウルをして転倒させた。井原はすごい形相で相手をにらみつけ、ピッチの砂をつかんで投げつけた。わたしはすぐに井原を呼び、「相手に報復するとは何ごとか。そんな選手にサッカーをする資格はない。スポーツマンなら、プレーで反撃する選手になれ。くやしかったらプレーで返せ」 あのときの井原の顔はいまでもよく覚えている。しかし、あの時以来、私は井原を厳しく怒ったことはない。 |