| ヴォーリズ来日100周年記念特集 [ 後編 ] |
| ヴォーリズ来日100年 近江商人と商業教育を考える |
27歳の誕生日にヴォーリズがアメリカのお母さんに送った写真(明治40年/1907)→ |
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◆滋賀県令・中井弘の強いイニシアチブのもと設立された滋賀県商業学校(現・八幡商)
この滋賀県商業学校は明治19年に滋賀県令(知事)・中井弘の強いイニシアチブのもとに創立された。 中井弘は薩摩出身で、坂本龍馬らと幕末に大政奉還を企てた明治の傑物であり、当時、まだ不安定だった明治政府の財政政策の一つとして近江商人の蓄えていた莫大な資産を活用し、日本の経済の振興を図ろうと、自ら望んで滋賀県令に着任したと言われている。商業学校の設立もその目的の一環であった。ちなみに、あの有名な琵琶湖疎水工事も中井県令の業績の一つである。 |
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滋賀県商業学校は当初、大津に県立の商業学校として開校された。 つまり、当時としては国家レベルの事業を県でおこなった訳で、開校式には文部大臣も出席し、近江商人の財力のすごさを物語るものだったと言われている。 ところが、 「商売人には学問は必要ない」という当時の人々の考え方から、わずか10年で廃校の危機に直面した。これを知った八幡、蒲生、神崎地区の有力な近江商人たちが誘致運動に立ち上がり、多額の資金提供のもとに明治34年、近江八幡に校舎を建設し、学校を移したのである。それはヴォーリズ着任の4年前のことであった。 |
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| ◆知事の給料と同額、校長の1.8倍! ヴォーリズの高給が示す 商業教育への熱意 明治38年、ヴォーリズはこの学校の英語教師に迎えられたが、記録によると、ヴォーリズの給料は県令(知事)の給料と同額で、校長の1.8倍、一般教師の4.5倍という高額だった。そればかりか、専用の料理人も付けられていた。つまり、それほどまでにこの学校には力が注がれたのである。 ◆今なお校歌に息づいている 当時の近江商人の心意気 この頃、制定された校歌からは、鎖国が解かれて海外に雄飛せんとする近江商人のはちきれんばかりの心意気がうかがえる。これは今も八幡商業高等学校の校歌として歌われており、高校の校歌としては全国でも1、2を争う古いものとなっている。右記はその3番の歌詞である。 |
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| 八幡商業学校・校歌
作詞:土井晩翠 作曲:東京音楽学校 -第3番-
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| ◆文明の光にピカピカ輝いていたヴォーリズ さて、ヴォーリズは着任早々から大変な人気で、自宅で開いたバイブルクラスには45人もの生徒が押しかけた。 これはキリスト教布教に対するヴォーリズの固い決意によるものであったことは当然ながら、加えて、アメリカよりはるばるやって来たヴォーリズから、少しでもアメリカの文化や文明を学びたいというのも生徒達の本音であった。それをうかがい知る資料として、在校生の1/3が将来アメリカに行きたいという希望を持っていたことが当時の進路調査の記録に残されている。 また、日本の医療事情が不安定だったので、ヴォーリズは多くの薬を持って来ており、これが欲しいために来る者もあったと記録されている。さらに、同僚の先生達も、ヴォーリズのためにコックが作る洋食を楽しみに来る者もあったという。 ヴォーリズは宗教問題が原因で、わずか2年で教師を免職となったが、彼はその後も日本に留まり、商業学校の卒業生である吉田悦蔵らと共に、建築家として、実業家として、社会事業家として活躍したことは周知の通りである。 |
![]() ヴォーリズと成長したバイブル クラスの教え子たち 吉田悦蔵・村田幸一郎・佐藤久勝・宮本文次郎・古長清丸 |
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![]() ヴォーリズ建築設計事務所より提出された八幡商業学校の設計図(その後変更あり) |
話は変わるが、明治までの江戸幕府の下では、藩は半ば独立国に近く、習慣も言葉も大きく異なっていた。庶民が他藩に移住することは許されず、旅行するのでさえ現代の我々が海外旅行をするよりはるかに難しい事だった。こうした中、近江商人は藩の国境を越え、北は北海道から南は九州まで商いに出掛けた。 つまり、国境を越えて突き進むという点で、ヴォーリズと近江商人には共通点があり、価値観
ヴォーリズが商業学校や町の人々に与えた影響は少なくないが、逆に「陰徳善事」や「三方良し」の商業倫理観 を確立していた近江商人もまた、24歳の青 年ヴォーリズを育むには充 分だったと考えるべきである。今日、CSR(企業の社会的責任)と言われる点において、ヴォーリズと近江商人は十分共感する ところがあったことは 疑う余地が無い。 つまり、そうした共感があったればこそ、ヴォーリ
現在の八幡商業高校の建物はヴォーリズの設計によるものであり、その玄関には、ヴォーリズ建築独特の重厚でやさしい雰囲気が漂っている。天井まで貫く大きな石柱、黒い石作りの手すりの緩やかな階段などから、今もこの玄関を通る者にヴォーリズの人となりが伝わってくる。 |
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かつて全国にたくさんあった商業学校は、現在その数を減らし、反対に大学の商学部、経済学部が格段に多くなっている。その多くは建前として、学問に力が注がれ、実業の養成はかつての商業学校と比べるべくもなく、お粗末なことが多い。これまでの社会の学歴偏重の弊害が、本来の商業教育を歪めていると言えるかも知れない。 120年前、「商業は実業であり、学問は必要ない」と商業学校の創立を歓迎しなかった当初の近江商人の嘆きが今、現実となっているような気がしてならない。 |
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| ◆本来、ビジネスは人格、感性、直感が 備わっていてこそ成り立つ
120年前、「商業は実業であり、学問は必要ない」と商業学校の創立を歓迎しなかった当初の近江商人の嘆きが今、現実となっているような気がしてならない。 出典/写真集「日本人を越えたニホン人」 文/山田脩治 |
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W.M.Vories
Forever滋賀県立八幡商業高等学校 校長 疋田 勝司 昭和55年から14年間、教師生活の中で最も長い期間を、私はここ八幡商で過ごしました。その間、創立100周年には、生徒たちがヴォーリズさんのことを一生懸命に調べ、その成果を教室に展示していたことを思い出します。わが校にヴォーリズさんがおられたのはわずか2年ですが、今も校舎のいたるところに、そして卒業生たちの心の中に脈々とヴォーリズスピリッツが流れているように思います。これからも、その精神を大切にし、新しい近江商人を輩出できるよう努力してまいります。 |
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昭和天皇を守ったヴォーリズ 昭和58年10月31日、東京新聞は、「終戦直後に天皇とマッカーサー元帥の会見のためにヴォーリズが大きな活躍をした」という内容の記事を報じた。これは米国の大学教授ムーアの論文を発表する形で次のように報じられている。 「米人宣教師、ウィリアム・M・ヴォーリズ師はマッカーサー元帥を訪ね、天皇処遇問題で近衛文麿元首相と会談するように仲介工作の労をとった…」(『東京新聞』より抜粋) またその後、昭和61年5月、中央公論は作家の上坂冬子女史の「天皇を守ったアメリカ人」と題する論文を発表。この論文は綿密で多方面な調査に基づくものであり、ヴォーリズが近衛文麿元首相の密使の訪問を受けて東京に行き、天皇を戦犯から救うためにマッカーサーと近衛文麿の会見に努力した経緯が述べられている。
そして、ヴォーリズはバートレット少佐からマッカーサーが天皇の処遇を思案中であることを聞き出し、これに対して、天皇が日本の象徴として人間宣言をするようなアイデアを近衛文麿に提案したものと推測される。 この話はヴォーリズの口からは終生語られることは無かったが、満喜子夫人から人づてに漏れたエピソードとして近江八幡では早くから知られていた。 この日記はヴォーリズのものと確認出来ており、わざわざウソの日記を書くとは考えられないため、確かなことであろう。いずれにせよ、この日記の2週間後、昭和20年9月27日には昭和天皇とマッカーサーが会見、天皇が戦犯裁判を免れ、日本の象徴として位置づけられた事は歴史が示すとおりである。 (今回、参考までにヴォーリズの日記の一部を下に掲載しておく) 出典/写真集「日本人を越えたニホン人」 文/山田脩治 |
【昭和20年(1945)9月12日】 けさ午前4時から5時の間、「天皇陛下の一言」として与えられる詔勅(Rescript)、あるいは宣言(Declaration)について示唆に富んだ言い回しを思いついた。 マッカーサー元帥は、これを日本国民の間に完全な信頼を回復するために、この上ないものとして受け入れるにちがいない。午前10時、私は予定通りそれを近衛公のもとにお届けした。近衛公は、例の個所をも含めた私の全報告に満足されたようだった。近衛公は、電報で呼び出すことを条件に、私に軽井沢へ帰ってもよいとおっしゃった。正午に、YMCAの昼食室で井川氏と落ち合った。我々は(ムラタさんも我々と同行した)、車で横浜へ向かい、バートレット海軍少佐(わが友人、日本に生まれた)に会い、マッカーサー元帥に報告したことを聞き知った。 元帥は、近衛公に会うことと、会見に臨む近衛公のために、交通手段と軍の護衛を付けることを同意したことを知った。 さて、これで準備万端整ったように思われる。またしてもそのお導きがすべてを支配するべく、神は目を注いでおられたのだ。 |
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