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伝統の「穴太衆積み」を現代に活かす

掲載日: 2013.09.25

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(株)粟田建設 取締役会長 粟田 純司さん(大津市在住・73歳)

自然石をそのまま積み上げる「穴太衆積み(あのおしゅうづみ)」。城の石垣を積む独特の方法として長い歴史を持っている。この方法で築かれた城は全国の城の8割以上にも及ぶという。技術を持つ石工は穴太衆と呼ばれ、その拠点は大津市の坂本にあり、今も地名に残っている。粟田純司(あわたじゅんじ)さんは、この匠の技を唯一伝える人で、2000年に現代の名工、昨年は文化財石垣保存技術保持者(文化庁)に認定された。文化財石垣保存技術協議会会長としても活躍している。

何百年もの風雪に耐え

彦根城の石積み

「穴太衆積み」によって積まれた石垣は強度にすぐれ、コンクリートの防護壁よりも強いという。
もともと寺院の石工だった穴太衆が脚光を浴びたのは、織田信長に命じられ、安土城を作った時。以来、江戸城、大坂城、名古屋城など全国の8割以上の築城で穴太衆が活躍したといわれる。
彼らが築いた石垣は小石などを奥に詰めて排水を良くするなど、さまざまな工夫があり、頑丈で数百年もの風雪に耐えている。近年、一乗寺(兵庫県加西市)の石垣が穴太衆積みで補修されたが、その直後の阪神淡路大震災でもびくともしなかったという。

時代の洗礼を受けつつ

安土城の石積み

ところがこの穴太衆積みも、江戸時代に入ると「一国一城令」が発令され、新しく城が造られることが少なくなり勢いを落とした。さらに、明治時代になるとコンクリート工事が主流になり、ますます状況が厳しくなった。
こうした時代の洗礼を受けながらも粟田さんの祖先は、日吉大社や三井寺の修復工事を請け負い、河川改修工事などの仕事もしながら穴太衆積みの技術を守ってきた。

「石の声」を聞きながら

粟田さんの父、万喜三(まきぞう)さんは粟田建設の十三代目で、人間国宝として活躍した。しかし、粟田さんは家業を継ぐべきかどうか心に迷いがあった。
そこで、とりあえず大学で土木工学を学び、県庁の採用試験を受けて合格。万喜三さんが喜んでくれるだろうと思ったら「穴太衆積みの後を継ぐのに、よそで働くとは何事か!」と一喝され、仕方なく石積みの世界に入ることになった。
最初のうちは大学で学んだ知識をもとに万喜三さんと口論することが多かったという。
「技は頭で覚えるものではない!手で覚えるものだ!」
仕事に厳しい万喜三さんは、粟田さんが積み上げたものを「違う!」とたたき壊したこともあった。
粟田さんが穴太衆積みの素晴らしさを知り、本気で技を究めようと思ったのはこの仕事を始めて11年目のことだった。
安土城の石垣の修復をしているとき、なぜか目を引く石があり、それを置いた瞬間にコトンと音がしたという。「ここでいいぞ……」と石がOKを出してくれたというのだ。
「石の声を聴き、石の行きたい所に石を置け」という、粟田家の家訓の意味がやっと理解できたという。それ以来、粟田さんは石に「どこに行きたい?」と問いかけ、仕事を進めるようにしている。

城以外にも生きる技術

城や寺社の石組みの需用は減ってしまったが、意外なところで穴太衆積みが活躍している。
北海道ではコンクリート護岸を石組みに変えて川を自然の姿に戻す仕事が多くなっている。コンクリートから石組みにして、魚が卵を産みやすくなり、その魚を狙ってキツネも姿を見せるようになったというのだ。
近年開通した新名神高速道路の工事でも、トンネルを掘って出てきた石は再利用され、防護壁の石組みに利用されている。
穴太衆積みの技術を受け継いでいるのは現在、粟田さんと息子の純徳(すみのり)さんだけだが、講演会を開くなどして若い職人に穴太衆積みの技を広める努力を惜しまない。
(取材・澤井)

 

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