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[68] 近江神宮での和時計展示予定の新聞紹介
2017/06/08
朝日新聞H29.6.8(木)朝刊25面滋賀版に、近江神宮での天文からくり和時計の展示予定が紹介されました。


[67] 「季刊iichiko」133号にインタビュー記事掲載
2017/01/20
麦焼酎「いいちこ」で有名な三和酒類(株)が発行されている文化誌「季刊iichiko」133号「和時計の文化技術」2017年1月20日冬号67頁〜79頁に、独立時計師・菊野昌宏氏によるインタビュー記事「深遠なる和時計」を掲載していただきました。

【インタビュー】深淵なる和時計 江戸時代の生活時間を刻む機械時計 Exploration of Japanese Clocks
岡田和夫 Kazuo Okada
【聞き手】菊野昌宏 Interviewd by Masahiro Kikuno
※以下は、独立時計師・菊野昌宏氏が岡田氏にメールで質問を投げかけ、その返信を元にまとめたものである。

――岡田さんは、国内有数の和時計コレクターであり和時計研究者です。和時計にいきついた理由と、どのような方針で収集されているのか、教えてください。
 私が時計に興味を持ったのは、20歳の時にお古の自動巻腕時計が壊れ、父の形見の手巻キングセイコーを替わりに使ったのがきっかけです。途端に、小宇宙のような腕時計の仕組みに魅せられました。それから私は国産を中心に古いゼンマイ式の腕時計を夢中で集めたのですが、見たこともないような時計が次から次に出てきたのです。時計メーカーのサービスセンターへ問い合わせた回答では全体像や細部が分からず、全容が分かる文献がないことに気付きました。
 同じように感じていた仲間と共に国産腕時計の解説書を出そうということになり、約20年前に国産腕時計シリーズ全12巻のうち、私はシチズンの手巻腕時計の2冊を分担しました。調べることの面白さが分かるにつれ夢中になり、興味は掛時計や初期のクォーツ時計へも広がりました。そして和時計も対象となったのですが、腕時計に比べて時代が遥かに古く、記録も非常に少ない和時計は不明確な部分が多かったのです。それが、私のような素人でも現物を調査することにより学術的な発見ができる余地が多くあるように感じられ、和時計が非常に魅力的なものとなっていきました。
 基本的には、国産腕時計を中心に日本の時計の歴史が分かるように体系的な収集を心がけていますが、狭間に埋もれた歴史を明らかにできるような時計も、できるだけ収集しています。特に和時計については、美術館にある美的で状態のよい王道を行くような和時計ではなく、状態が悪くても和時計の新たな歴史を掘り起こし明らかにできるような研究資料としてのコレクションを目指しています。現在までに、江戸時代の和時計からクォーツ腕時計までの1000点以上を収集しました。生涯を賭けて集めた時計コレクション一式を、いずれ公立博物館などへ無償で一括寄贈し、「文化財」として次世代へ残そうと「時計保存活動」を行っていて、2022年頃完遂予定です。

和時計の歴史
 文献上で確認できる日本へ最初にもたらされた機械式時計は、天文20年(1551年)にスペインの宣教師フランシスコ・ザビエルから山口県周防地方の守護大名・大内義隆へ、キリスト教の布教許可を得るために献上された定時法の時打ち洋時計と言われています。
 日本人による機械式時計製作の始まりは、河本信雄著『日本での機械時計製作開始時期の考察』によれば、慶長5年(1600年)から九州のセミナリヨに附属する実業学校で、宣教師から洋時計の製作法を教わったのが最初のようです。
 文献上で確認できる最初の和時計は、同様に『日本での機械時計製作開始時期の考察』によれば、江戸時代前期の尾張藩士で儒学者の深田円空(生年不詳〜1663年)が考案し、江戸の職人・初代津田助左衛門政之が初代尾張藩主の徳川義直(1601〜1650年)のために、元和9年(1623年)に製作した記録が残る「おもりどけい」と推測されています。ただし、江戸時代中期の長崎の天文学者である西川如見(1648〜1724年)による正徳4年(1714年)の『両儀集説』には、棒天符の櫛歯は長崎の時計師が考案したと書かれていて、深田円空は和時計としての形態を完成した可能性もあります。
 重錘が下がる力で動く和時計は、当初は柱に掛ける掛時計形式でした。その後、櫓台に載せた櫓時計、台時計、尺時計のように形態が増えていきました。ゼンマイを使った和時計は、置時計型の枕時計、碩屏時計、卓上時計、卦算時計、印籠時計、懐中時計などのように形態が増えると共に小型化していきます。また、精度の良い洋時計に割駒式文字盤を適用した和前時計も作られました。
 和時計の最大の特徴は、不定時法に適応した機械式時計だということ。これは、毎日行う昼夜の切り替えや、季節の切り替わりによる調整が必要になるため、大変手間のかかる時計でもありました。
 当初は専属の時計師が付きっ切りで世話をしていたと言われていますが、1600年代後期頃の比較的早い段階で、素人でも調整ができるマニュアルができ(後述の和時計B参照・以下同)、1600年代中期頃には毎日の昼夜の切り替えを自動で行う二挺天符機構(CFM参照)、1700年代前半頃には毎日の昼夜の切り替え不要な割駒式文字盤(J〜N参照)、文政年間(1818〜1830年)後期頃には季節の切り替わりによる調整も不要な円グラフ文字盤自動伸縮指針機構(ただし報時はできず)、弘化年間(1844〜1848年)頃には報時もでき全て自動で調整する自動割駒機構(@参照)が開発されています。

――和時計の意義は、どういった点にあるとお考えですか。
 機械式時計が開発されて普遍的な定時法に移行した西洋では、多くの人々が時刻を知るために時計を欲し、小型化や高精度化、量産化など合理的な方向に時計が発展しました。それに対して、日本では手工業的な製造方法のまま、従来の局所的な不定時法に機械式時計を合わせる努力をしています。不定時法の旧暦から定時法の新暦へ変わった明治5年(1872年)の改暦のような不都合な結果だけを捉えれば、ガラパゴス化した国産携帯電話のように、古い時刻制度の不定時法に執着した和時計は進む方向を誤ったようにも見えるかもしれません。
 しかし、見方を変えれば、自然との繋がりに意識が向くことで花鳥風月を愛でる心を持ち、「究極のサマータイム」と言えるような自然との調和を図ったエコロジーな生活を存続させた文化とも言えるのではないでしょうか。結果的には、世界で唯一の実社会で使われた不定時法の機械式時計として、歴史的価値の高い文化財である和時計が生まれました。合理化一点張りとは異なる視点の景色が見え、ある意味、ムダの効用と言えるだろうと思います。

――日本の和時計は、なぜ精度を追求する方向へ向かわなかったと思われますか。
 不定時法で生活をしていた江戸時代には、和時計の所有者は僅かで、多くの人々は時計がなくても周りの環境から大凡の時刻を推測できていました。ですから、垂揺球儀(A参照)などが使われた暦作成のための天体観測のような場合を除いて、多少の誤差があっても社会として特段の不便を感じず、高精度化を必要としなかったのではないかと思われます。
 また、次のような理由から高精度化を目指しても限界があり、振子や髭ゼンマイ付き円天符でも十分高い精度だと捉えられていたのではないかと思われます。
 ・ 当時は太陽の南中以外に誤差を確認する方法がなく、均時差(最大17分程度)以上の精度は確認できなかった。
 ・ 不定時法の昼夜の時間の長さは日々変わるため、天符の精密な歩度調整が困難。
 ・ 昼夜を分ける薄明の時刻は個人の主観や環境に左右される部分があるため、時刻そのものが曖昧(最終的には太陽の俯角を定義して明確化している)。
 つまり、高精度化を追究するよりも、昼夜や季節の変化に伴う調整の利便性を図ることと、装飾に意識が集中したのではないかと思います。

――尺時計、割駒式和時計は、それぞれいつ頃に生まれたと思われますか?
 尺時計は、寛政8年(1796年)細川半蔵頼直著『機巧図彙』や宝暦11年(1761年)西村遠里著『授時解』に、授時簡(じゅじかん)または授時公や百刻時計と呼ばれる棒天符を用いた古い形式の尺時計の具体的な構造説明があることから、少なくとも1700年代中期には使われていたことが確認できます。
 国立天文台の暦Wikiによれば、宝暦暦(1755〜1798年)作成時に授時簡が新しい観測機器として導入されたと記載されていて、宝暦暦の暦法を記述した宝暦4年(1754年)の『宝暦暦法新書』には授時簡の構造説明があります。
 現在研究中のため断言はできませんが、時打なし小型一挺天符掛時計(I参照)のような時計から発展して、恐らく江戸時代中期(1700年代前半)頃に尺時計が開発されたのではないかと私は考えています。
 割駒式和時計については、享保17年(1732年)頃に長崎の幕府御用時計師・初代幸野吉郎左衛門が将軍家のオランダ製大時計を修理した際に、不定時法時刻に合うようにした旨の記述が渡辺庫輔著『長崎の時計師』にあります。実物資料としては、『和時計学会誌』45号に、享保9年(1724年)に購入の記載がある割駒式文字盤櫓時計が報告されています。
 ただし、江戸時代中期(1700年代前半)頃の作と思われる初期の割駒式文字盤のような菊形表時板袴腰一挺天符櫓時計が、近江神宮などに3台ほど確認できるため、開発時期はもう少し遡れると考えられます。
 余談ですが、二挺天符や割駒式文字盤など多くの技術は、比較的初期に開発されていると考えられ、大変興味深いですね。

――枕時計などの動力ゼンマイの材質について、ご存知ですか。鋼製か真鍮製か、国産か輸入品かが気になっています。
 残念ながら、枕時計(MN参照)の香箱内のゼンマイを見たことがありません。
 ボンボン時計に使われるような均質で強力な鋼製ゼンマイが国産化されるのは、明治26年(1893年)欄木松次郎からと言われていて、多くの鋼製ゼンマイは輸入品だと私は想像しています。
 ただし、渡辺庫輔著『長崎の時計師』によれば、長崎の時計師・初代幸野吉郎左衛門が享保14年(1729年)に修理した香箱御時計の見積もりで、ゼンマイを新規に作り直す旨の記載があります。また、享保18年(1733年)には、幕命により南蛮鉄を用いて刀を鍛造したという記載もあります。彼は優れた時計師であり、かつ優れた鍛冶師でもあったことから、ゼンマイの材質が何かは不明なものの、鉄の可能性も在り得ると思われます。よって、仕上りが不均質な鋼製ゼンマイの場合は、国産である可能性もあると考えます。鋼製よりも弾性は低いけれども加工が容易な真鍮製ゼンマイは、からくり人形の一部や万年時計に使われていて、それらは国産のはずです。
 関連した話として、円天符には鋼製の髭ゼンマイが使われていて、常識的に考えれば輸入品だと想像されますが、先のように優れた鍛冶師であれば、紙状の良質の鉄材を細く切って丸めて焼き入れをすれば、作ることができた、つまり国産も可能であったのではないかと考えています。

――和時計を制作するための専用工具などを見たことがありますか?
 残念ながら見たことはありません。

――印籠時計は蒔絵などの装飾を施したものが少ないように思いますが、なぜだとお考えですか?
 問題意識がなく、これまで調べていないのでよく分かりませんが、例えば以下のような想像ができます。
 水戸黄門の時代劇に見られるように、印籠は社会的地位を示すステータスシンボルとして機能していたと考えられます。印籠時計に蒔絵などの装飾を施したものが少ない理由は、「わびさび」という日本の美意識に根差した、持主個人の感性による影響が大きいのではないでしょうか。
 というのも、武士の正装に用いられ裕福な町人でも持つことができた印籠は、個性を表現するステータスシンボルで、現物資料を見ても分かるように工芸技術の粋を競うような絢爛豪華な装飾を施したものが、大量に作られたと考えられます。一方、江戸時代後期(1800年代前半)頃から作られたと想像される印籠時計(JK参照)のような非常に高価なものは、極少数の高級武士や豪商が主に愛玩用として用いたと思われ、印籠時計そのものが少ない状態において、絢爛豪華の対極にある「わびさび」の美意識に根差した持主個人の感性により、質素な外装が多く選ばれたのではないかと思います。

――いま、岡田さんが一番関心のある和時計の話題を教えてください。
 菊野さんが腕時計に開発されていらっしゃる自動割駒機構(@参照)に関する話題で、和時計学会で真贋が議論になっている、文政12年(1829年)製の「扇板式自動割駒櫓時計」のことです。これは、時刻を示す割駒自体の位置ではなく割駒の隙間間隔を調整するという斬新な発想に、差動歯車と遊星歯車を用いた巧妙な減速輪列を採用した自動割駒機構で、従来に確認されている方式の自動割駒機構と異なり、より単純で洗練されています。
 しかし、当時既に比較的精度が高い振子や髭ゼンマイ付き円天符が長く使われていたにもかかわらず、当該櫓時計は精度が求められる自動割駒機構に和時計らしいが精度の低い旧式の棒天符を採用し、試作品のような合理性のない歯車輪列比を用いています。また、当該櫓時計の割駒全体の動くタイミングを制御する年周カムは、他の複数の作者により複数台確認されている弘化年間(1844〜1848年)前後の従来方式自動割駒和時計の多くと同じく、ほぼ正しい余弦型カムになっているのに対して、数年後の同一作者作とされている天保5年(1835年)製円グラフ文字盤自動伸縮指針掛時計の年周カムは大きく歪んでいます。同一作者でありながら年周カム形状が大きく異なり、何故か古い方の誤差が少なくなっています。
 他にも贋作の可能性が高い類似品として、不合理な棒天符が採用されていて不自然な点がある円グラフ文字盤自動伸縮指針枕時計と自動割駒掛時計が海外で売られていたことを確認しており、当該櫓時計は、棒天符の採用以外にも年周カム形状や歯車輪列比のように不可解な特徴もあることから、贋作の可能性が考えられます。
 ただし、扇板式自動割駒機構は非常に出来が良く、贋作であったとしても「本物を超えた贋作」とも言えるほどで、奥行きのある構造のため腕時計には向かないでしょうが、割駒の隙間間隔を調整するという発想は研究の価値があると思われます。
 また、構造的に難しいと思われますが、自動割駒機構に位置も示す月齢表示(G参照)と太陽指針に星座表示があれば、自分の手の中の時計に小さな宇宙があるようで、とてもロマンチックな感じがすると思います。

――ご自身がお持ちの和時計をいくつかご紹介ください。

@究極の和時計「三宅正利作自動割駒八角形卓上和時計」2台(試作品と完成品)
 自動割駒和時計は、不定時法に対応するよう発展した和時計の中でも究極の機能を持っており、季節の変化に合わせて普通は手動で半月毎に行う文字盤の時刻目盛(割駒)の位置調整を自動的に行い、鐘で時を知らせる。この種の時計は、所在不明も含めて7台しか確認されていない非常に珍しい和時計で、中でも「からくり儀右衛門」と呼ばれた田中久重が嘉永4年(1851年)に作った「万年時計」は、和時計の最高傑作として有名で国の重要文化財に指定されている。
 この2台の八角形卓上和時計は、共に掌に乗る直径約8cmの最小の大きさの自動割駒和時計で、文字盤裏のわずか直径約5cm厚さ約1cmのスペースに組み込まれたカムや歯車を巧に用いて、1日1回転する文字盤の回転に合わせて割駒の位置を少しずつ変化させ、季節に応じた時間の長さを自動的に表示し報時する。
 写真上の試作品は、国内(京都)にあったもので2004年に知人から購入。写真下の完成品は、米国イリノイ州ロックフォード市にあった有名な時計博物館「タイム・ミュージアム」(アトウッド・コレクション)に含まれていたもので、1999年閉館後2002年のオークションに掛けられ所在が不明であったが、落札した米国人コレクターが2005年に偶然見つかり、交渉の末2006年に購入したもの。 
 2007年の国立科学博物館との共同研究で、この2台の自動割駒八角形卓上和時計が、河内牧方(大阪府枚方市)の三宅正利により江戸時代末期の弘化年間(1844〜1848年)前後に作られた、試作品と完成品の兄弟和時計であることが判明し、日本と米国に行き別れになっていた究極の機能を持った兄弟和時計が、思いがけず150年の時を経て再会したことになる。
 また、上記の2台以外にほとんど類例のない八角形卓上和時計として、広東時計の機械を用いた手動で割駒を動かす八角形卓上和前時計が国立科学博物館にある。寸法や意匠の類似性から三宅正利作の可能性が十分高いと同共同研究で判明していることから、自動割駒機構の試作に先行して試験的に作られたと考えられ、外観が類似する3台の和時計が三宅正利作という一本の糸で繋がり更に感慨深い。

A両面に文字盤がある垂揺球儀(すいようきゅうぎ)
 江戸時代の天体観測に用いられたストップウォッチのような精密振子時計。世界に数点しか現存を確認できず、唯一の裏面に時刻を表示する両面時計タイプの垂揺球儀。全高約90cm、機械高約25cm 。
 垂揺球儀は、精度を上げるために初期に振子が使われた和時計で、日本で考案された独創的な対向ガンギ車を用い、幕府の天文台で天文方が暦を作るときに必要な天体観測などに使われていた。1790年代の寛政期頃に開発され1860年代の幕末頃までに20〜30台程度作られたと推測されているが、8台しか現存が確認されていない。この種の時計は、伊能忠敬が日本地図を作るときにも使用され、その時計は国宝に指定されており、「プロ仕様の業務用和時計」で「江戸時代の天文台クロノメーター」とでも言える究極の高精度和時計。
 この垂揺球儀は、保管箱の裏書から文化12年(1815年)に作られたことが分かり、野外使用を目的に作られたものでコンパクト化されて両面に文字盤があり、表面では振子の振動数を100万回までカウントして時間の長さを計り、裏面では割駒式文字盤により不定時法時刻を計る。野外での天体観測に便利なように仮設台に載せて本体のみで使用したと考えられ、裏面に時刻を表示する両面時計タイプの垂揺球儀は、この1台しか確認されていない(現在の台は動かすために便宜上用いている後付け台)。

B初めて具体的な時間調整方法が確認された和時計
 古い形式の和時計は、櫛歯が刻まれた棒天符の左右に下げられた小さな分銅の位置を変えて、不定時法に合うように時計の進む速さを調節しているが、昼夜と季節によって変わる分銅の具体的な位置は今まで分かっておらず、江戸時代中期(1700年代前半)頃の、この和時計を支える櫓の蓋の内側に貼られていた『時計仕掛之書付』と書かれた紙により、初めて具体的な分銅の位置が確認できた。(全高約93cm,機械高約27.8cm)
 ちなみに江戸時代前期に活躍した大阪の作家・井原西鶴(1642〜1693年)の代表作のひとつで、奔放な男の人生を描いた『好色一代男』(天和2年[1682年]刊)5巻には、教養のある遊女・吉野が和時計の分銅を調節する場面があり、時計師のような専門家以外が調節をするために、このようなマニュアルが当時既に用いられていたと考えられる。和時計研究の第一人者の国立科学博物館・名誉研究員・佐々木勝浩氏によれば、国内では初めて確認されたもので、恐らく世界でも初の確認例と思われる。

C藤車式二挺天符櫓時計
 季節によって昼夜の時間の長さが変わる不定時法に対応して、昼夜で調速機の棒天符を自動的に切り替える二挺天符機構は、他に類を見ない日本独自の機構として広く知られている。なかでも藤車式二挺天符櫓時計は、江戸時代前期の1600年代中期頃に発明されたと推測されるガンギ車がひとつしかない、最も簡素な最初の二挺天符機構である。(機械高約31.5cm)
 2010年の国立科学博物館との共同研究で、藤車式二挺天符機構の構造と特徴が初めて明らかになった。目撃証言を含めても3台しか確認できず、この藤車式二挺天符櫓時計は唯一現存が確認できるもの。確認できる台数が非常に少なく日本でも存在が余り知られていない。

D円グラフ懐中和時計
 非常に数少ない国産の懐中和時計で、初めて確認された割駒式以外の文字盤を用いた江戸時代末期(1800年代後半)頃の新種の携帯用和時計。
 1年を通じた季節による昼夜の時間の変化を長方形のグラフにした尺時計の波板式文字板を円環状にした円グラフ文字盤は、文政年間(1818〜1830年)頃から江戸時代末期(1800年代後半)頃に作られた、季節毎のグラフの位置に合うように指針が自動で伸縮する円グラフ文字盤自動伸縮指針機構の枕時計や掛時計が所在不明も含めて5台確認されているが、携帯用和時計では唯一の確認例。
 直径約7cm厚さ約4cmで節気(15日)毎に手動で指針の長さを変更して用い、波板式尺時計のように節気毎の割駒位置の調整が不要になり操作性や精度の向上が図れる。

E燈前尺時計(とうぜんしゃくどけい)
 燈前時計は、和紙などに描かれた半透明な文字板を行燈(あんどん)などの明かりに透かして、夜間に影絵のように時刻を読む和時計で、所在不明も含めて懐中時計型など5台確認されている。
 この燈前尺時計は、季節によって変更する13枚分の替文字板(巻物状節板式紙文字板)が一式揃った状態の唯一の完全体で、唯一の尺時計タイプの燈前時計。和時計最後期の明治3年(1870年)京都・斎授堂製、全高約36.5cm。

F兼松工房作二挺天符櫓時計3台
 この3台の櫓時計は、江戸時代後期の文化文政期(1804〜1830年)頃に福井県若狭地方で活動した兼松正富らが作った二挺天符櫓時計で、大多数を占める一般的な二挺天符機構の変形として、二挺天符が両方とも鐘柱より前方にあるなど特徴的な構造を持っている。
 2009年の国立科学博物館との共同研究で、兼松正富らの工房で作られた6台の二挺天符櫓時計の構造と特徴が明らかになったが、後に新たな櫓時計が4台追加確認でき、同一工房作と考えられる櫓時計が合計10台確認できる非常に稀な例。
(上)兼松正富作文化14年(1817年)製二挺天符櫓時計(全高約114cm,機械高約30.2cm)
(中)兼松工房作天文図側二挺天符櫓時計(全高約110cm,機械高約30cm)
(下)兼松工房作初期二挺天符櫓時計(機械高約30cm)

G月齢表示一挺天符櫓時計
 月の位置と満ち欠けを表示する一挺天符櫓時計。文字盤の内側の左上端にある小さい丸窓が月の位置を示し、丸窓内に月の満ち欠けを表示する。現存する数は比較的少ない。
(上)江戸時代前期(1600年代後期)頃。鉄側、鉄機械、機械高約34.5cm。
(下)江戸時代中期(1700年代)頃。真鍮側、鉄機械、機械高約25cm。

H牧野治助作対向脱進機振子掛時計
 垂揺球儀(A参照)と同様な日本独自の希少な対向脱進機が用いられた、1日を13分割された加賀藩特有の時刻制度が用いられた高精度な掛時計。
 前板裏に「御時計師 牧野治助(花押)」と刻銘があり、鑑定士の澤田平氏所蔵の加賀藩の垂揺球儀である正時版符天機と同じ作者で、時打・目覚付、機械高約32cm、幕末頃(1800年代後半)に作られたと推定。正時版符天機の後継として加賀藩で時鍾の管理に用いられたと思われるが、詳細は現在研究中。

I時打なし小型一挺天符掛時計
 授時簡や尺時計の原型となった可能性がある、江戸時代中期(1700年代前半)頃の時打のない小型一挺天符掛時計。安価にするため時打機構を備えなかったと思われるが、指針部も省略して機械を支える柱に時刻目盛を刻み錘の巻鍵を付ければ、授時簡のような古い尺時計と同じ構造になる。
 和時計は自鳴鍾とも呼ばれたように鐘の音で時刻を知らせることが元々の主な機能で、後に作られた尺時計や携帯和時計の多くと一部の小型枕時計、構造的に時打できない円グラフ文字盤自動伸縮指針掛時計以外はほとんど時打機構を持つ。これと同種の時打のない小型掛時計は目撃例と合わせて3台しか確認できず、尺時計により淘汰された可能性がある。高さ約13.5cm、重錘降下距離約1.2m、詳細は現在研究中。

J盲人用真鍮側印籠時計(写真左)
 江戸時代末期(1800年代後半)頃に作られたと考えられる真鍮側の盲人用印籠時計。当初よりガラスのない丈夫な真鍮ケースに収められ、指で割駒式文字盤に直接触れて時刻を確認でき、紛失しないように巻鍵が紐に通されており、検校などの高貴な盲人が用いていたと考えられる。高さ約7cm。

K紫檀側印籠時計(遠眼鏡根付)(写真右)
 根付に小型望遠鏡を用いた幕末頃(1800年代後半)に作られたと考えられる紫檀側の印籠時計。高さ約7cm。

L金側和前懐中時計
 1800年頃のフランスL'Epine製金側懐中時計を時針が1日で1回転するように改造し、割駒式文字盤を取り付けた和前懐中時計。中国へ輸出された時計が江戸時代後期頃(1800年代中頃以降)に輸入され日本で改造された和前懐中時計で、分針があることから後期のものと考えられる。
 旧式の分厚い銀側ケースが多い和前懐中時計の中で、直径51mm厚さ17mmの薄型金無垢ケースに収まった非常に珍しい例。

M二挺天符枕時計
 江戸時代後期(1800年)頃の作と思われる、比較的数が少ない櫓時計機械にゼンマイを付けたような前期形式の枕時計。後年に文字盤外周部を割駒式に改造。紫檀側(機械周囲鉄側)、真鍮機械、二挺天符、二重時打、目覚、十二支暦、高さ約26cm。

N青ガラス枕時計
 江戸時代末期(1800年後半)頃の作と思われる、運針と時打の機構を左右に配置し髭ゼンマイ付き円天符と割駒式文字盤を用いて小型化された、一般的な後期形式の枕時計。丸型機械に青ガラスをはめ込み機械の周りに欄干を付けるなど非常に凝った意匠で、同一作者と考えられる類似の意匠の枕時計が国立科学博物館などに4台ほど確認できる。紫檀側、真鍮機械、高さ約18cm。

O初期一挺天符掛時計(ハート形カム式異機構)
 時打停止機構に初期で数少ないハート形カム式を採用し、撞木を動かす弾き金が天板上にあるなど時打機構に他の和時計に類を見ない異なる構造を採用していることから、和時計の原型ができた頃に近い江戸時代前期(1600年代前期)頃に作られた可能性あり。機械高約50cm、詳細は現在研究中。

●おかだ・かずお
1959年滋賀県生まれ。時計収集家。和時計学会会員、日本古時計クラブ会員、NPO法人「時計BUNKA」副理事長。37年以上にわたり集めた千点以上の時計を公立博物館などへ無償で一括寄贈し、文化財として次世代へ伝え社会に役立てるため「時計保存活動」に取り組んでいる。 写真提供(株)ヤマプラ



[66] 近江神宮での和時計展示の新聞紹介
2016/06/11
産経新聞H28.6.11(土)朝刊22面滋賀版と、中日新聞H28.6.11(土)朝刊22面滋賀版に、近江神宮での藤車式二挺天符櫓時計の展示が紹介されました。


[65] 近江神宮での和時計展示
2016/06/10
「本邦初! 藤車式二挺天符櫓時計の動態展示」

 今回は、江戸時代前期の1600年代中期頃に発明されたと推測される、最初期の藤車(ふじぐるま)式二挺天符櫓時計を動かした状態で展示します。
 この和時計は、目撃証言も含めて3台しか確認できず、現存が確認できる唯一の藤車式二挺天符櫓時計で、動態展示も含めて本邦初展示です。
 確認できる台数が非常に少なく日本でも存在が余り知られていないため、日本国内はおろか恐らく世界中でも、藤車式二挺天符櫓時計として展示している博物館は、ほとんどないと思われます。

藤車式二挺天符櫓時計
 江戸時代前期1600年代中期頃の製作(推定),鉄機械,真鍮側,袴腰,単独回転指針,藤車式二挺天符機構(藤車形ガンギ車+棒天符吊下金具上下移動式切替機構),鐘・鐘留は後補,高さ31.5cm.

(説明)
 主に江戸時代に日本で用いられた和時計は、季節によって昼夜の時間の長さが変わる不定時法に対応した機械式時計です。 和時計の特徴の一つとして、昼夜で調速機の棒天符を自動的に切り替える二挺天符機構は、他に類を見ない日本独自の機構として広く知られています。
 和時計が発明されたと考えられる江戸時代前期の1600年代前期頃から間もない、1600年代中期頃に発明されたと推測される二挺天符機構には、表−1のように3つの種類があり、この藤車式二挺天符櫓時計は、ガンギ車がひとつしかなく、最初に発明された最も簡素な二挺天符機構と考えられます。
 「藤車式二挺天符機構」(図−1,写真−1〜9参照)は、棒天符切替動作の信頼性や構造上・運用上の問題があり、比較的短い期間で「過渡期藤車式二挺天符機構」(参考−1参照)を経由して、二挺天符和時計として完成された「一般形二挺天符機構」(図−2,参考−2参照)へ切り替わったと推測されます。 そして、二挺天符和時計の大多数を占める一般形二挺天符機構は、江戸時代後期の1800年代前期頃に普及したと考えられます。
 この和時計により、最初に発明されたと考えられる二挺天符和時計である、藤車式二挺天符機構の構造と特徴が初めて明らかになりました。 詳細は、和時計学会誌、または国立科学博物館研究報告を参照ください。

(注釈)
 1)佐々木勝浩,岡田和夫,2010.『藤車式二挺天符機構の構造と特徴』,国立科学博物館研究報告,E類33巻9〜19頁.国立科学博物館ウェブページ(http://www.kahaku.go.jp/research/publication/sci_engineer/download/33/BNMNS_E3302.pdf)参照. 図−1は15頁の図2より,図−2は10頁の図1より引用.
 2)過渡期藤車式二挺天符櫓時計,鉄機械,真鍮側,目覚付,縦二重暦,過渡期藤車式二挺天符機構(改良型藤車形ガンギ車+棒天符軸交互押上式切替機構),高さ47cm,鳥取県鳥取市・渡辺美術館蔵.
 3)岡田和夫,2016.『二挺天符機構の開発経緯に関する考察(その1)』,和時計学会誌48号34〜44頁.



[64] 和時計学会誌への論文掲載
2016/05/1
和時計学会誌「和時計48号」に、「二挺天符機構の開発経緯に関する考察(その1)」論文を掲載(本文11頁)。

1−2(概要)
 前記のような初期の二挺天符和時計などを調査した結果,現時点における二挺天符機構は3種類確認でき,開発経緯は以下のとおり推測される(表-1参照,詳細は以下の各章を参照).
 @ 藤車式二挺天符機構は,構造上の欠陥などの問題点があったが,藤車形ガンギ車と棒天符吊下金具上下移動式切替機構を採用した,最初に考案された簡素な二挺天符機構と考えられる.その後,比較的早い時期に棒天符切替機構などが改良された過渡期藤車式二挺天符機構へ切り替わったと推測され,藤車式二挺天符機構は淘汰されたと考えられる.
 A 過渡期藤車式二挺天符機構は,構造上の欠陥を暫定的に改良された藤車形ガンギ車のまま,一般形二挺天符機構と同じ改良された棒天符軸交互押上式切替機構が採用されており,藤車式二挺天符機構から一般形二挺天符機構へ移行する過渡期に登場したと考えられる.その後,比較的早い時期に一般形二挺天符機構が完成したと推測され,過渡期藤車式二挺天符機構も淘汰されたと考えられる.
 B 一般形二挺天符機構は,二重ガンギ車と棒天符軸交互押上式切替機構を採用し,藤車式二挺天符機構の欠点を抜本的に改良した,二挺天符機構の完成形と考えられる.過渡期藤車式二挺天符機構の登場後,比較的早い時期に藤車形ガンギ車の構造上の欠陥を抜本的に改良された二重ガンギ車が考案されたと推測され,一般形二挺天符機構は江戸時代後期頃に比較的広く普及したと考えられる.同機構は,二重ガンギ車支持構造や棒天符切替カム形状などの相違から,クランク状金具と棒状カムを用いた平山武蔵作二挺天符掛時計や法橋元佐作二挺天符櫓時計が古く,Y字状金具と正三角形カムを用いた津田助左衛門作二挺天符櫓時計が後に作られたと推測され,貞享5年(1688年)以前において既に一般形二挺天符機構が完成していたと考えられる.
 また,一般形二挺天符機構の変形として,元文2年(1737年)に新潟県越後地方の荒井与市が作ったと伝えられる主要部分が木製の二挺天符櫓時計や,文化文政期(1804〜1830年)頃に福井県若狭地方の兼松正富らが作った構造の簡略化を図った二挺天符櫓時計があり,当初の一挺天符を江戸時代後期頃に二挺天符へ改造したと推測される櫓時計も確認できる.

 考案時期については,明確な時期は不明ながら以下のとおり推測される.
 先のとおり貞享5年(1688年)以前において既に一般形二挺天符機構が完成していたと考えられ,最近の研究9)では江戸時代前期の尾張藩士で儒学者の深田円空(生年不詳〜1663年)が考案し,初代津田助左衛門政之が元和9年(1623年)に製作した「おもりどけい」が最初の和時計と推測されていることから,元和9年(1623年)から貞享5年(1688年)までの66年のうち恐らく後半頃に藤車式二挺天符機構が考案され,その後の比較的早い時期に,過渡期藤車式二挺天符機構を経由して,一般形二挺天符機構が完成されたと考えられる.
 従って,和時計考案後の比較的早い1600年代中期頃に,藤車式二挺天符機構と過渡期藤車式二挺天符機構,一般形二挺天符機構という3種類の二挺天符機構が順次考案されたと推測される.

 考案場所については,詳細は不明ながら以下のとおり推測される. 
 「長崎の時計師」の著者である渡辺庫輔(1901〜1963年)の新聞記事10)によれば,出典は不明ながら江戸時代中期の長崎の天文学者である西川如見(1648〜1724年)が「二挺天符は長崎人の発明といった」と書かれており,藤車式二挺天符機構は長崎の時計師が考案した可能性がある.また,一般形二挺天符機構は完成度が高く洗練された印象があるのに対して,強いて言えば藤車式二挺天符機構は発想が素直で形式に囚われない大胆な印象があることも,長崎の時計師が最初に考案した可能性を想像させる.
 一方,一般論では需要が高く手工業も発達していた京都が推定される考案場所の第一候補に挙げられ,調査できた範囲で最も古い一般形二挺天符和時計は京都の時計師である平山武蔵作の掛時計と推測され,情報を確認できた初期の一般形二挺天符和時計のうち4台中3台が京都の時計師作であった.また,完成度が高い二重ガンギ車や棒天符軸交互押上式切替機構を採用していることからも,一般形二挺天符機構は熟練した時計師が居た京都で考案された可能性がある.
 なお,過渡期藤車式二挺天符機構の推定考案場所は不明ながら,一般形二挺天符機構と同じ完成度が高い棒天符軸交互押上式切替機構を採用していることから,京都での考案が想像される.
 従って,藤車式二挺天符機構は長崎で考案された可能性が推測され,一般形二挺天符機構は京都で考案された可能性が推測される.また,過渡期藤車式二挺天符機構は京都で考案された可能性が想像される.

(注釈)
 1)過渡期藤車式二挺天符櫓時計,鉄機械,真鍮側,目覚付,縦二重暦,過渡期藤車式二挺天符機構(改良型藤車形ガンギ車+棒天符軸交互押上式切替機構),高さ47cm,鳥取県鳥取市・渡辺美術館蔵.
 2)平山作1二挺天符掛時計,鉄機械,真鍮側,冠形脱進機(二重ガンギ車),目覚付,高さ30.7cm,左前柱外面に「京御幸町之住 平山武蔵掾長憲」刻銘,福岡県・北九州市立自然史・歴史博物館蔵.



[63] 電子メールアドレスの復旧連絡
2016/06/1
 2016年6月1日(水)から以前の電子メールアドレスが復旧できましたので連絡します。

常用アドレス : kazuokada@nike.eonet.ne.jp
仮設アドレス : isojioyaji@yahoo.co.jp


 2014年9月17日(水)頃から電子メールソフトの不調により、今まで使っていたkazuokada@nike.eonet.ne.jpアドレスが使えない状態で、電子メールの発受信や閲覧もできないため、当面の間の電子メールは仮設のisojioyaji@yahoo.co.jp 宛で発信を御願い致します。

 御面倒を御掛けし大変恐縮ですが、本年9/17(水)以降に以前のアドレス宛てに御送りいただいた電子メールがございましたら、御手数ですが仮設の新しいアドレスへ転送下さるよう御願い致します。

仮設の新アドレス : isojioyaji@yahoo.co.jp



[62] 活動の新聞紹介
2015/6/1
読売新聞H27..()朝刊面滋賀版に、活動が紹介されました。


[61] 和時計学会誌への論文掲載
2015/05/01
和時計学会誌「和時計47号」に、「不定時法自動表示和時計の概要(その4)」論文を掲載(本文16頁)。

 今回と次回は、当初予定していた自動割駒式文字盤機構のうち歯車方式の解説と全体の総括は次々号以降へ先送りとし、本誌46号5〜16頁に掲載された「文政十二年(1829)伊豫在政作自動割駒和時計」について疑義があるため、議論したいと思います。 著者の御二人や所有者の方には大変失礼とは存じますが、過ちの可能性を看過すれば歴史認識を誤った方向へ導き、公共の利益を損ねることにもなり兼ねないため、敢えて指摘し是々非々で率直な意見を述べます。 当該の文政12年(1829年)製伊豫在政作自動割駒式文字盤櫓時計(以下では「扇板方式自動割駒和時計」と呼び「扇板方式」と略称)は、下記のとおり多くの疑問点があり、筆者は贋作と判断していますが、思い違いや無知の可能性もあるため、根拠を示した忌憚のない御意見を、本誌において読者の皆様から指摘して下さるよう御願い致します。

5−1(概要)
 扇板方式自動割駒機構は、割駒を移動させる扇板を2枚1組にして動かすため小さいながら原理的に必ず誤差を生じ、スリット円盤と文字盤基板の摺動面積が大きく扇板を動かすスリット円盤が動く方向と文字盤基板スリットとの交差角が大きいため摩擦抵抗が大きいと思われる欠点や、文字盤中心部にネジで枠組を保持する空間が必要で機構を重ねる段数も多いため文字盤ユニットの直径や厚みが大きくなる欠点があると考えられますが、比較的構造や動作も単純で、差動歯車と遊星歯車による合理的な減速輪列を採用しており、現時点では最も洗練された自動割駒機構と考えられます。

 しかし、主に下記のような疑念があり、近年の不定時法自動表示機構に関する論文などを参考にして、中国などで製造された贋作と筆者は判断しています。
 ・不定時法自動表示機構の存在理由の根幹に係わるような精度を犠牲にしてまで、調速機に棒天符を採用しており非常に不合理であること。
 ・設計の妥当性を示すと考えられる重錘降下距離比の大きな不整合など、試作品レベルと判断される和時計に、花押まである作者名、住所、製造年という完全な銘が入れられていることが不自然であること。
 ・銘のある場所や内容、歯車材質と作風の違いから、真鍮製歯車を用いた当該の文政12年(1829年)製扇板方式自動割駒和時計と、鉄製歯車を用いた天保7年(1836年)製一挺天符櫓時計は、同一作者である可能性が低いと推測されること。

 なお、以上の真贋判断は比較的主観的な基準のため、より客観的な判断のためには、非破壊で確認できる蛍光 X 線分析法により真鍮材質中の鉛や不純物の濃度を分析し、大まかな製造年代を判定することを提案します。

国立科学博物館研究報告E類第36巻掲載の「文政十二年(1829)伊豫在政作自動割駒和時計」は、http://www.kahaku.go.jp/research/publication/sci_engineer/download/36/BNMNS_E36_27-38.pdf 参照.



[60] 「完訳からくり図彙」への記事掲載協力
2014/10/20
村上和夫氏編訳「完訳からくり図彙」 並木書房刊 定価5500円+税

 昼夜と季節によって単位時間である「一時(いっとき)」の長さが変わる不定時法において、時計の進む速さを調整するために棒天符の左右に下げる小さな分銅について、具体的な位置が初めて確認された「時計仕掛之書付」が115頁に紹介されました。

 江戸時代前期に活躍した大坂の作家・井原西鶴(1642〜1693年)の代表作のひとつで、奔放な男の人生を描いた「好色一代男」(1682年刊)5巻には、教養のある遊女・吉野大夫が和時計の分銅を調整する場面がありますが、このように時計師のような専門家以外の者が調整するためには、この「時計仕掛之書付」のようなマニュアルが当時広く一般に用いられていたと考えられます。



[59] 近江神宮での和時計展示
2014/06/10
「江戸時代の夜間時計 −燈前尺時計−」展

今年も6/10「時の記念日」に、近江神宮での「漏刻祭」後の和時計学会総会において、和時計を展示しました。 今回の展示は、暗い夜でも時刻を確認できる和時計で、数少ない燈前時計のうち、唯一完全な形で残る燈前尺時計です。

燈前尺時計 (とうぜん しゃくどけい)
 明治3年(1870年)製,京都・斎授堂作,巻物状の和紙に木版印刷された節板式文字板,真鍮機械,冠形(バージ)脱進機,髭ゼンマイ付き円天符,動作確認用秒針付き,文字板に在銘 「明治三歳庚午秋 御時計所 京蛸薬師通冨小路東へ入 斎授堂造」,全高36.5cm.

(1)燈前時計とは
 燈前時計は、和紙などに描かれた半透明な文字板を行燈(あんどん)などの明かりに透かして、夜間に影絵のように時刻を読む和時計です。 当時としては重要な「明かり」と「時」という2つの要素を結びつけたアイデアは素晴らしいと思われますが、現存数が非常に少なく、著者が確認できた範囲では、行燈組込型1台、懐中型3台、尺時計型1台の合計5台の記録があり、現存は4台しか確認できませんでした(表−1参照)。 また、文献への記載も少なく、製作時期などの詳しい解説も見当たりませんでした。 表−1を見ると、動力源にはゼンマイ式が多いことから比較的高級な部類に属すると思われ、懐中型携帯時計、髭ゼンマイ付きの円天符式調速機、シリンダー式脱進機のように和時計後期の特徴が比較的多く受けられます。 なお、江戸時代当時は季節や昼夜によって単位時間の長さが変わる不定時法が使われていたため、節気毎(半月毎)に文字板を変えていたと考えられますが、節板式紙文字板が巻物状で全て残されている燈前尺時計以外は、時計に付いている文字板以外は紛失していることが多いようです。
 ちなみに日本の燈前時計と類似したものに、西洋で用いられた夜間時計(Night clocks)がありますが、形状や構造も大きく異なり時代の隔たりも大きいと思われることから、燈前時計が夜間時計をモデルとした可能性は低いと推測されます。 夜間時計は、内蔵の植物油等を燃やすオイルランプで光を透過する文字盤が映し出されることにより夜に時刻を表示する置時計で、1600年代後半(江戸時代前期)頃にイタリアで上流階級向けに作られましたが、時打ちがなく動作音も静かでしたが精度が低く、一般的な置時計の普及と共に衰退し発展しませんでした。

(2)燈前時計の推定製作年代
 明確な製作時期は不明ですが、燈前尺時計は文字板の銘から明治3年(1870年)に作られたことが判り、外国製部品と考えられるシリンダー式脱進機を利用した懐中型携帯燈前時計は恐らく幕末〜明治初期頃(1800年代後半)と大雑把な推測は可能です。 また、下記のような推測では、夜間営業の大店(おおだな)で安政2年(1855年)前後から明治初期(1870年代)の間に用いられたのではないかと想像できます。
 江戸時代末期に都市で産業が発達してくると、夜間も活動が活発になり、明かりの需要が拡大すると共に、夜店のような夜間営業の商業活動も発展して行き、夜でも時刻を知りたいという要求が出てくることが想像できます。 大勢の人が任意に時刻を知るには時計の鐘の音ではなく文字板を視認することになりますが、ほの暗い行燈の明かりに照らされた和時計では、文字板が小さくハッキリ見えなかったと思われます。 そこで、行燈の明かりに透かして時刻を読む燈前時計が登場したのではないかと想像されますが、当時の時計は高価で、規模が大きな商店しか燈前時計を持てなかったと思われます。 ちなみに、心斎橋筋北商店街Webページの発足年表によれば、延宝4年(1676年)に大坂・順慶町通に幕府から夜間営業が許可されており、この前後から夜店が並び始めたと思われ、安政2年(1855年)に大坂を訪れた儒学者・清河八郎の旅日記である「西遊草」には、大店も近年の不景気で夜間営業するようになったとあり、この頃には大丸などの大店も夜間営業していたことが確認できます。 先の推測に照らせば、燈前時計は夜間営業の大きな商店で安政2年(1855年)前後から用いられたのではないかと想像できます。 しかし燈前時計の供用期間は、長くは続かなかったと思われ、明るく隅々まで照らす便利な石油ランプと、白く大きな文字盤を備え夜間でも時刻が認識しやすいボンボン時計が、明治初期(1870年代)に急速に普及することにより、瞬く間に淘汰されたと想像できます。 燈前時計の現存数が少ないことは、主に夜間に使うという特殊な用途で需要が多くなかったと思われることと、登場した時期が幕末とすれば、淘汰される明治初期までの期間が短かったこととも符合します。
 また、憶測ですが、下記のとおり早くから夜店が開けた商人の町・大坂で、燈前時計の使用が始まった可能性も想像できます。 @天保5年(1834年)に大坂を訪れた江戸時代後期の戯作家・畑銀鶏が、「街能噂(ちまたのうわさ)」の中で夜店は大坂で始まったと書いています。 A当時は大坂近郊で栽培された菜種油が大坂の油問屋を通じて全国に販売されていました。 B天保期頃(1830年代頃)には、高価なロウソクに比べて比較的安価な菜種油を強制的に供給することにより、長時間安定して明るい無尽燈が滋賀と京都で考案されていました。

(3)燈前尺時計の特徴
 この燈前尺時計(写真−1左参照)は、表−1の中で、季節によって変更する13枚分の替文字板(節板)が一式揃った状態の唯一の完全体で、唯一の尺時計タイプの燈前時計になります。 昼間は普通の節板式尺時計ですが、夜間になるとケースの裏側に開けられた開口部から行燈の光が入り、文字板が明るくひかり時刻が判ります(写真−1右参照)。 他の燈前時計では、季節によって変更する13枚分の替文字板のうち残り12枚を別に保管する必要がありますが(多くの場合は紛失している)、この燈前尺時計では2本の支持棒に巻物状に巻きつけられた和紙に、全ての季節の文字板(節板)が並んで木版印刷されているため、替文字板の別保管が不要になり、紛失することなく半月毎に支持棒を回して文字板を変えることができます。 和紙製文字板に木版印刷された銘 「明治三歳庚午秋 御時計所 京蛸薬師通冨小路東へ入 斎授堂造」(写真−3参照)から、京都の斎授堂が明治3年(1870年)に製作したことが確認できます。 厳密には明治時代初期ですが、明治5年(1872年)の改暦までは不定時法が用いられており、江戸時代に用いられていた不定時法の最末期の頃で、広い意味で江戸時代に含まれます。 前面から動作が確認できるよう秒針が付いており、機械正面上部に1,2,3とアラビア数字が書かれ約15秒で一周します。

(4)燈前尺時計の構造
 ケース内の鉛でできた重錘を左右に分割し(写真−2参照)、ケース本体の裏に文字板に近い大きさの開口部を開けることにより(写真−2参照)、裏側から導かれた行燈などの光が巻物状の和紙製文字板を透過し、時刻を指し示すように作られています。 また、文字板下部の支持軸を回すことにより巻物状の和紙製節板式文字板が変更でき(写真−4参照)、変更した文字板の平面を保てるように文字板の位置を固定するクリック機構が設けられています(写真−5参照)。 簡単な構造ですが、節板式尺時計の特徴を上手く利用して、ゼンマイを用いず安価に燈前時計を実現しています。





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